公益社団法人 東京青年会議所(東京JC)

公益社団法人 東京青年会議所

東京JC70周年


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歴史は一つしかあってはいけない

70周年特別企画―第一回 前期創世記

この話を理解する為には、70年前がどのような時代だったか想像しどっぷり浸かってもらう必要がある。
 70年前の東京は本当に悲惨な状況だった。
 占領軍による戦争責任者の公職追放は財界にまで範囲を広げられ、財閥解体による企業規模の縮小とあいまって、日本の経済活動を骨抜きにしていた。
 目的を見失った国民、新しいイデオロギーに動揺する世相、先の見通すことのできない激動の時代であった。

帝国陸軍将校としての務めを終え帰国した三輪青年の新しい使命は、戦争の為に焼けてしまった自工場の再建と復員してくる社員に対してどのように仕事を与えていくかを考えることだった。
 激動の時代を乗り越えるべく、三輪青年は勉強のやり直しを考えたが、当時は勉強する場もないどころか、先生となる人物や共に学ぶ友人たちも戦場から帰ってきていなかったのである。なんとか財界の先輩に教えを乞おうと、ある財界の大物のもとに赴いた。

「私が教えるまでもなく、これからは君たちが日本を支えていかなければならない、我々に気兼ねなくやってくれたまえ、我々の時代は過ぎたのだ。」

 財界の大物のこの言葉に対して三輪青年は落胆し激怒した。長居は無用とばかりにその場を後にし、帰路に就いた三輪青年の胸には「このままではいけない、自分たちで何とかしなければ」という思いが浮かんでいたのであった。

 三輪青年は悩み、五つのテーマを作り上げた
1、勉強する団体。
2、中央集権でなく、東京ローカルで始め徐々に全国に広める。
3、東京商工会議所・日本経済団体連合会・経済同友会・日本経営者団体連盟の経済四団体(当時)どこにも属さない独立した団体。
4、経営者の団体にせず、職種や思想、性別関係なく入れるような異質な集合体にする。
5、政党とは一線を隔す。

これが、三輪青年の構想する団体のテーマであり、現在の青年会議所の特徴である年齢制限や単年度制は当初の計画には無いものだった。また、当時は占領下ということもあり外国との通信が制限されており外国に青年団体があることを知ったのはその後のことだった。

1949年春、三輪青年はその構想を持って、東京商工会議所総務課長藤岡氏に面会し助力を得ることになったのである。

ここまでが、三輪初代理事長が体験した、東京青年会議所前期創世記の話である。

志しを同じうするもの、相集い、力を合わせ

70周年特別企画―第二回 後期創世記

三輪青年の構想・理念に賛同し協力を約束してくれた、東京商工会議所会議室総務課長は三輪青年に対して、まずは友人を集めるように助言をした。

早速、三輪青年は年来の友である黒川光朝氏に電話をかけ構想を話し協力を要請、快諾を得ることができた。その後、堀越義雄氏、小坂俊雄氏、丸晋氏などの友と共に、自らの力を信じ、他の束縛を受けず、自らの力で行動する清新溌剌たる運動の展開を行う組織を如何にして具体化すれば良いのか、討議を重ねていったのである。

その討議は白熱的なものであった。時に理想と現実のギャップに苦悩し、時にメンバー同士の考え方の相違は現れたが、次第に一つのものへとまとめられていったのである。
その相違の中には、まず全国組織を創るという意見やあくまで東京ローカル組織から出発するという意見もあった。
全国組織論は、仮に事務局長を政府機関から排出してもらい、予算措置などの援助を受けることにより、一挙に有力な団体として発足することを可能とし、かくして生まれる本部機構の下に各地支部を設置しようという、中央集権的な考え方だった。
それに対し、ローカル組織論は、東京は東京という如く各々まず地域で活動を開始し、必要に応じて統合体をつくろうという考え方であり、三輪青年の「青年の若き情熱から自然発生的に生まれる運動でありたい」という、はじめからの理念にもとづいた考え方であった。
しかし、この意見の相違も、この運動をあくまで上から作られるものでなく、自発的なものとして作りたいという青年の理想と、当時の交通及び通信事情への配慮などから、結論としてあくまでローカルの運動として自発的出発に基礎をおくという考え方にまとまり、「JCはその町の地下水」という基本的考え方がここに確立し、今日の日本におけるJC運動が「地方母体」路線に定着した基盤が出来たのである。

こうして、一同の志向は、青年経営者たちの自己修練と地域への奉仕を通じ、日本経済再建の担い手としての力を養うことを目的とした組織という方向に固まっていったのである。

そして、48名の同志たちは、日本の青年会議所運動の幕開けといえる日、1949年9月3日を迎えたのであった。

新日本の再建は我々青年の仕事である。

70周年特別企画―第三回 創立総会

1949年9月3日、いよいよ東京青年商工会議所の創立総会が行われた。式場は、東京商工会議所会議室、創立総会議長は黒川光朝氏が務めることとなり、東京商工会議所総務課長藤岡氏も事務局相談役として出席した。
発会当時の会員数は48名、初代理事長には三輪善兵衛氏が選ばれた。
設立趣意書は次のごとくある

「新日本の再建は我々青年の仕事である。更めて述べる迄もなく日本の実情は極めて苦難に満ちている。この苦難を打開してゆくため採るべき途は先ず国内経済の充実であり、国際経済との密接なる提携である。
その任務の大半を負っている我々青年はあらゆる機会をとらえて互に団結し自らの修養に努めなければならぬと信ずる。
既に欧米の各地においては青年商工会議所が設立せられ、1946年にはこれらの世界的連絡機関としての国際青年商工会議所さえ設置せられておる。我々はこれ等の国際機関との連携は素より、青年の持つ熱と力とを以って産業経済の実勢を究め、常に認識を新たにして、その責務の達成を期したい。
ここに政治経済の中心地、東京に在る我々青年はその使命の極めて重大なるを思い、同志相寄り東京青年商工会議所の設立を企図した次第である。」(原文のまま)

この総会で承認された会則の中に、会員の年齢制限と役員の1年任期がある。
会員の年齢制限は、満25歳以上満35歳以下の者(1954年山本理事長の年度に現在の40歳以下となる。)と定められている。これを、青年なればこそ試行錯誤を繰り返すことが許され、また活動を行うことのプロセスの中で自ら修練することを許されるという意味で「青年権」あるいは「活動権」という言葉で三輪氏は表している。この青年独自のエネルギーとモラルへの情熱を団体として維持することを、この年齢制限という規定が保証している。また、年齢制限は必然的に若い会員獲得のための最大限の努力を要求している。漫然と活動していると、団体そのものが消滅してしまうからである。
役員の任期を1年と定めた規定も同様に、運動を若々しいものとする要因となった。「トレーニングのためにこそ役員になるのだ」という趣旨は伝統として現在まで脈々と受け継がれている。
この2つは、藤岡氏の調べによりアメリカの青年団体にあったものを準備段階で三輪氏が取り入れたものである。

こうして、9月3日は、日本における青年会議所運動が東京から公式に発足した日として記念され、「JCデー」と呼ばれている。

最後に、48名のチャーターメンバーを列挙しておく

三輪善兵衛・岩波雄二郎・黒田光朝・近藤民三郎・鈴木康雄・八田恒平・堀越善雄・丸晋・森岡賢一郎・大木基彰・山田隆・朝倉孝吉・鮎川弥一・伊藤和夫・神谷克郎・亀井要・川崎七三郎・黒田彰一・小坂俊雄・小島健二・小西達司・小松彰久・服部康正・杉山元太郎・鈴木重明・住友勝・外池寅松・堤平五・成毛収一・西浦文三・服部禮次郎・浜野一郎・守谷一郎・森美秀・森村衛・山本恵造・近藤利郎・井口俊次・中山進一・寺平好孝・長谷川一男・篠崎貞蔵・古林秀夫・喜頭時彦・近藤利夫・安西伯・森

「青年の若い情熱が自然発生的に」

70周年特別企画―第四回 各地へ

東京青年商工会議所発足のニュースは新聞でも取り上げられることとなった。
東京青年商工会議所のメンバーは、定款や設立趣意書を鞄に入れ各地に飛び、各地商工会議所あるいは工業会などの事務当局に各地青年商工会議所設立協力の勧誘を精力的に開始したのだった。
その動きに呼応して、昭和25年3月 大阪、4月 前橋、5月 函館、7月 西宮、8月 名古屋、9月 広島、11月 旭川とまさに雨後の筍のごとく各地に広がっていったのである。
各地に青年商工会議所が拡大するにつけて、青年商工会議所同士の連絡を密にする必要が生じてきた。その為、昭和25年5月1日に日本工業倶楽部において第1回全国青年商工会議所懇談会が開催された。議長は東京青年商工会議所三輪理事長が務めることとなった。
日本青年会議所会報創刊号(昭和28年6月刊)によると、東京、大阪、前橋、函館、神戸、大宮、千葉、芦品から21名が参加したとある。この中には、東京、大阪、前橋の様に、すでに本格的に青年商工会議所として活動を開始していたものもあり、また準備団体的なものもあって、ここにあげられたメンバーが、必ずしも後にローカルJCに発展したわけではない。しかし、この会合がJC運動にとって大変記念碑的であったのが、席上、神戸代表(当時はまだ青年商工会議所として発足していなかった)の提案により、東京青年商工会議所の設立趣意書の内容から各地青年商工会議所に共通するスローガンとして「トレーニング(個人の修練)」「サービス(社会への奉仕)」「フレンドシップ(世界との友情)」の三原則が引用されたことだった。
東京青年商工会議所が発足した折の会則には「本会は、青年独自の立場において会員相互の啓発と親睦を図り、且つ商工業に関する事項を調査研究し以て将来強力な活動の素地を作るを目的とする」(原文のまま)とあった。この条文と、設立趣意書には上記の3つの要素が含まれている。
このJC運動なるものは、まず、若い人々が集まって自己修練、トレーニングをするものであり、ついでその力を用いて地域社会へのサービスをする。さらに、そのトレーニングとサービスを支える力として、会員全体を貫くフレンドシップがある。一方、フレンドシップを培うこともサービスに徹することも、また等しくトレーニングに繋がるものである。と理解され、満場一致で採択されたのだった。

当時を振り返って三輪初代理事長は、青年商工会議所が急速に各地に広がりを見せていった理由を2つあげている。
1、 東京商工会議所の設立が新聞に掲載された反響である。
2、 各地の青年たちが我々と同じようなことを考えていたのでないか。
まさに、青年の若い情熱が自然発生的に各地の青年商工会議所を作り上げていったのであった。